山ろく対話=対話の生まれる場を求める小さな試み。

非社交的な人間の他人への繋がり方。

開催報告 1月11日@御代田

1月11日13時半~16時くらいまでで、御代田町のエコール御代田で開催しました。

参加申し込みがなく開催が危ぶまれましたが、3人の参加者で開催しました。

 

進め方ルールに従い、初めにテーマについて考えていることを交えて自己紹介。

(これは、何度も参加している方も初めて参加の方も、(初対面同士の)自己紹介になります。)

続いて、今回のテーマ「対話する」についての始めの問い出しは次の通りでした。

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それぞれの問いに対して質問、そのあと相互対話を経て、一人一つの問い、あるいはとりあえずの今回の結論/感想を出しました。

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そのあと再び、相互対話をして終了になりました。

 

今回は、対話の場の開催を掲げている、山ろく対話のそもそもの「対話する」をテーマにしたものでした。

以下、あくまで私という自分の考えを断片的に記します。

「対話」に対するそれぞれの自分からのとらえ方、それがもたらすものへのある確証から、それをもたらしてくれたあり様を「対話する」という言葉にしているのではないか、もっともそうした形に拠ることで始めて「対話する」ということが言い表されるのかもしれないです。

私の場合については、ではどういう語り方ができるのか?

対話の場では、対話が成り立つことを意図的に設定して具体的な進め方等のルールを設定しています。

しかし実際のところ、「対話した」、と腑に落ちるような瞬間は、そう多くはない、あるいは極めて少ない、ほとんどないといってもよいかもしれない。

けれどそれに向けて、安易ではなく地道な努力をする場が対話の場なのではないか。そんなお互いの努力が感じ取れれば、「対話に向かっているな。」という安心感がそこで得られるかもしれない。しばらくして自分のなかで「なるほどそういうことか。」と対話が成り立ったと感じる時がくる可能性があるかもしれない。

あえて「対話の場」を設定しなくても、日常/普段の場でも親しく安心感の得られる人との話の中では同じに言えることでしょう。

しかし、世間生活の場面では、「対話に向かわない」ような場合も多くある、また他人にそれを求め過ぎると、自分の欲や我の自己増殖をなおざりにしてしまう。

結局何より大事な、自己対話が疎かになっていることに気づかなくなってしまう。

そんなことへの危機感に促されて、他人にたいして、そして自分にたいしても対話を拓く場であるようにと、小さく始めているのが、山ろく対話という場なのかもしれません。