問いはどこから生まれるのか?
問いを立てることを重視し、なぜ問いを立てるのか考えながら対話の場を開催してきた。
しかし、それぞれに生活を送り、そこで様々な問題に向き合い、もちろん常に問題と向き合っている訳でなく衣食住に必要な行動を日々しながら、その日々のなかで問いを立てるとはどういう状況なのか? ただ知的満足を得るだけではない。いや、ただでも知的満足は得ないところから始めたい。
学習と経験を積むことで上手に問いを立てられるようにもなっていくが、技法が先行するとつまらないことになる。頭の中だけで作られたような問いには、意味は充満しているようだが、個々の人たちとの生活と繋がってくるような、意味が示す方向性の力が感じられない。
山ろく対話は、対話の場。
それはまず自分の中での対話、問いが生まれるところのあり様をはっきりと見るための場であり、そしてもう一つは自分と他人に向けての語りの場、そこから問いを生み出したい(まずはその意志から始まるのか?)ところのあり様を言葉で語ってみる場であればと思う。
テーマを通じて自分のあり様をKJ法で表す。複数の自分のあり様をKJ法で示された表で知る。そこまで山ろく対話のプログラムは辿り着いた。
今後しばらくは、一番初めのところに焦点をおいてやってみようと思う。
*次回は、11月にオンラインでの開催予定です。日時、詳細は後日お知らせします。
また、開催されても少人数になりますが、参加希望の方がいましたら個別に日時を合
わせますのでご連絡ください。
連絡先は、山ろく対話運営者の江村まで。→ nknm18foestk32km@gmail.com
(こうした、問いを生み出す「語り」そのものを表現の仕方として洗練していけば小説になっていくのかも知れない。実際、細々と続けている朗読ワークショップでは、この作品からはどんな問いが立てらるのかをいつも考えている。)